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 沖縄本島の北、約27km、東シナ海に浮かぶ伊是名島諸島は、遥か太古より、黒潮の恩恵にあやかり、島を緑どる礁池(ラグーン)は海の幸の宝庫となり、人々に恵みを与えてきた。
 村内で確認された貝塚や遺跡は、先史時代の人々が、海辺近くの砂地に住み、素もぐりや魚や貝を採り、海と深い関わりを持ちながら健やかに暮らしてきたことを物語る。また、ウフジカ遺跡からは、沖縄本島と奄美系の土器が出土し、この島が古くから奄美諸島と沖縄本島を結ぶ拠点であったことを伺い知ることができる。
 貝塚時代、海や山の恵みを求め移動を続けていた人々は、12世紀に入ると、肥沃な土地を活かし、米や麦を作る農耕社会を営むようになり、一箇所に定住し集落を形成していった。
 海を越えた交易も活発になり、13世紀に入ると集落の権力者たちは、砦としてのグスクを築き始める。グスク時代と称すこの時期には、さまざまなグスクが築かれたが、中でも伊是名島の南方海岸に突き出た岩山に築かれた伊是名城は、まさに天然の砦であり難攻不落の城と言われていた。
 それから約200年の時を経て、伊是名島生まれの百姓の子が、伊是名島の歴史を大きく塗り変えることになる。その人物とは、1470年〜1879年の約410年に及ぶ第二尚氏王統を開いた尚円王である。尚円王の誕生により、新王朝開祖生誕の地である伊是名は、神聖の地として格別の扱いをうけることになる。
 尚円王の叔父「真三郎」は、世襲制の夫地頭という他の離島では見られない「銘苅大屋子」の地位を与えられた。叔母は「二かや田の阿母」と称する神女職を賜わり、姉はその上職である「阿母加那志」の職を与えられた。
 王家ゆかりの一族は、ユトゥヌチと呼ばれ、たびたび首里にのぼり、王国に謁見することが許された。王家からさまざまな贈り物を賜わり、それらは文化財として今日まで大切に受け継がれている。
 古琉球、伊是名、伊平屋の両島は、一つの行政区「ゑひや(伊平屋島)」として扱われていた。1609年、家康の出兵許可を取り付けた薩摩藩島津家久は3,000の兵を琉球に送り、首里城を陥落。島津侵入により、琉球史は、古琉球から近世琉球へと世替わりをし、間切・シマ制度も間切・村制度へと転換した。これにより「ゑひや」は「伊平屋島」へと移行し、伊是名を前地、伊平屋を後地と呼び番所は伊是名に置かれた。
 1879年(明治12年)、薩摩置県により琉球藩が廃止され沖縄県となり、約410年余も続いた「琉球王国」に終わりを告げる。伊是名においても、1880年(明治13年)、番所内に役所が設置されたが、翌年那覇役所に併合された。その後、1896年(明治29年)の郡編成の公布にともない島尻群に編入。翌年には、間切・島の吏員改革によって、伊是名の番所は役場と改称され、地頭代も島長に任命された。
 1937年(昭和12年)頃、村役場が伊是名島(前地)にあると不便であるとの声が伊平屋の住民からあがり分割運動が起こった。1939年(昭和14年)、分村許可指令により、伊平屋村から分村。古代から「伊平屋の七離」に包括されてきた「伊平屋島」は、二つの村に分かれ、伊是名村が誕生した。
 太平洋戦争が勃発すると、伊是名村でも戦時体制を整え始める。1944年(昭和19年)には、男子が伊江島飛行場建設の工事に徴用され、十・十空襲では、民家の一部が爆撃を受けた。1945年(昭和20年)、米軍の沖縄上陸作戦が展開され、沖縄は占領され、県の施政権本土から分離され、アメリカ軍統治下に置かれた。
 戦時下の暗い自縛から解き放された昭和20年後半には、ベビーブームが訪れ、伊是名村でも人口が急増した。
 多くの人々を抱えた村では、食糧調達のため、山野を切り開き田や畑を広げた。1955年(昭和30年)をピークに人口は減少。1972年(昭和47年)の本土復帰後は、減反政策により、黄金色の稲穂がたなびく田園風景は、銀色の穂が風にゆれるさとうきび畑へと変わってきた。





尚円王のふるさと




 数奇な運命で一介の百姓が天下人となった。国王ゆかりの地として、その遺徳は今も脈々と相伝されている。
 その昔、琉球は南山・中山・北山に分かれ、各地の豪族たちによる群雄割拠が続いていた。時を同じくして、伊是名島の青々とした農村で一人の男の子が産声を上げた。童名を思徳金といい、北の松金と呼ばれていた。後の金丸である。人徳に厚く、村娘の憧れの人であった松金は、聖人君子たるゆえ、村の青年からは妬まれていたという。
 百姓の出だった父尚稷(尚貞王)によって王号を追尊された)は、松金が20歳の時に亡くなり、松金はその後を継いで農業を営むことになった。勤勉な松金は、百姓でもその力を発揮し、松金が耕す水田は、毎年、見事なまでに黄金色の稲穂を実らせていた。
 ある年、日照りが続き、島を早魃が襲った。山裾に広がる下の田は、すっかり干上がってしまっているにもかかわらず、上にある松金の田だけは水を満々たたえていた。下の田の主たちは、きっと松金が水を盗んでいるに違いないと思い、ある晩、下の田に水が流れるように、こっそりと松金の田の畔を切った。翌朝、田の様子を伺いにいった青年たちが見たものは、前日と変わらず水が満々とたたえられている松金の田に対し、からから干上がった自分たちの田の姿だった。「さては、水が逆に流れたのだろうか?」「いや、違う。自分たちの企みに気づき、夜中に水を汲み上げたに違いない」
 そう思った青年たちは、日頃の妬みをここぞとばかり晴らそうと、松金に水盗みの罰を被せ、殺害しようと計画した。
 このときの「水が逆に流れた」という不思議な光景に由来し、松金の田には逆田の名がつけられ、今でも地名となって残っている。



 青年たちの企みが実行される日、いつものように野良仕事を終え家路を急ぐ松金の前に、突然白髪の老人が現れ、身の危険を告げた。取るものも取らず山中に隠れた松金は、妻と弟を連れ、その夜のうちに伊是名脱出を図った。この夜は月明かりもなく、真っ暗闇の中、手探りで浜辺へと向かわねばならなかった。するとどうしたことか、どこからともなく一筋の光が差し、行く手を明るく照らし、浜辺へと導いた。無事浜辺へたどり着いた3人は、海岸から船を出し、対岸の国頭をめざした。島では、今でもこの海岸を「明し原」と呼び、船出した浜をウシュフンチャ(御主加奈志が踏んだ土地)と呼んでいる。
 国頭の宜名真に逃れた松金は、そこにも長くはおれず、各地を転々としているうちに首里に上り、越来按司(のちの尚泰久)に認められ家人となった。知にたけ、人格にも優れていた松金は、越来按司もいたく重用し、周りからも尊ばれた。按司の勧めにより、尚思達王の家来赤頭に就いた金丸は、めきめきと頭角を現し、尚金福王代で黄冠を賜わった。
 泰久が王位に就くと、西原間切りの領地を与えられ地頭に任命された。45歳のときには、泰久の側近として、王国の財政と外交を担当する御物城御鎖側の要職に就いた。泰久は政事の大切な決断のさいには、必ず金丸の助言を得たという。
 しかし、尚泰久が没し、世子尚徳が王位に就いたが、尚徳はまれにみる暴君で意見があわず、金丸は職を辞して54歳のとき内間御殿にひきこもる。
 翌年、尚徳が亡くなり、尚徳の幼君を世子にたてようと郡臣を首里城に召集させたとき、郡臣のひとり安里大親が前に歩み出た。この老臣は「虎ぬ子や虎、悪王の(尚徳)の子や悪王、物くいしどぅ我御主、内間御鎖どぅべきと進言した。尚徳王の行いに不満を抱いていた臣下たちは、「よくぞ言ってくれた」とばかり衆議一決したという。
 これより翌年1470年、金丸は56歳にして琉球国王に即位し尚円を号し、明治12年の琉球処分まで、19代410余年という永きに亘る第2尚氏王統を開いた。こうして伊是名生まれの百姓の子は、皮肉にも、同じ島出身の鮫川大主の子孫が開いた第一尚氏王統に終止符を打つことになり、波乱万丈の人生を歩みながらも、琉球王国の天下人にまで出世したのである。